海に吹く風
―陸でキミを想うー



「なぁ、雅行・・・」
「なんだ、尾栗?」
かすかに波の音が聞こえていた。
洋上の、「みらい」の甲板で聞くのとは違う音。
ささやかで心強くて、そして懐かしい音が聞こえていた。
「さっきさぁ、あのお姉ちゃんたちが部屋に入ってきたとき・・・」
「・・・・?」
「俺、思い切り欲情しちゃった・・・」
「・・・まぁ、久々だったしな」
菊池が瞬間、頬を赤らめ視線を下方に流しながら言った。
学生時代から菊池はあまりこういった話題に乗ってくることはなかった。
尾栗はそれを承知であえて言葉を重ねる。
「おまえはどうなんだよ」
意地悪だ。菊池はそう思い、そして尾栗もそれを自覚していた。
「・・・・・」
菊池は答えない。目を伏せたまま、小さな動作でうつむく。
「やっぱおまえもオトコだな」
「・・・何だ、悪いか!」
恥ずかしさから声が震える菊池。
それを見て満足そうに笑う尾栗の目には悪戯な光があった。
「ウチの女帝殿以外のオンナなんて久しぶりだったもんなぁ」
「・・・・・」
思い出したのかウキウキと声の弾む尾栗に対して菊池に言葉はないまま。
かすかな波音だけ響く沈黙が流れた。
「あのな、雅行」
「だから何だよ?!」
「いいからこっち向けよ」
無理矢理に顔の向きを変えさせて尾栗は満面の笑みでうなづいた。
菊池は何がなんだか分からないままの不満さで顔をしかめる。
「俺、あの時な。日本髪のお姉ちゃんたちを見ても起たなかったんだ。
 一瞬だけ不能になっちまったかと焦ったけどな」
男としては不名誉であろうことをあっけらかんと言いのける尾栗に菊池はますます混乱し、同時に嫌悪感をつのらせる。
「とっさにおまえの顔を思い出した。それからもう1回彼女達の顔を見てさ。
 そしたらいきなり衝動がこみ上げてきた・・・」
衝動というのはつまり熱のことだろうと、自分にも少しだけ思い当たる菊池。
顔を尾栗に抑えられたままの菊池はだから再び視線を泳がせた。
「あの中のどの姉ちゃんたちよりも雅行のほうがキレイだ」
「ふざけるな。俺は男だ!」
「それくらい知ってるさ。でも事実だからな」
自身の反応に対する恥ずかしさと尾栗の言葉への怒りに憤る菊池の表情は凄艶で、尾栗は思わず口笛を吹いた。
「おまえさ、いつも髪あげてるじゃん? 額とか生え際もセクシー」
「何を言うんだ」
「だってな、日本髪なんかよりよっぽどいいぜ。その変に禁欲的なトコとかさ」
額に唇が寄せられ、そのまま床に押し倒される。
菊池の体はうまく尾栗に押さえ込まれていた。
「どうせ艦に戻っても入れ違いで副長はいないからな。俺としようぜ」
「なんでそこで洋介が出てくるんだ」
「そういう雅行こそ、なんでそこでいきなりヤツの名前なんだよ。さっき俺のこと名字で呼んでたクセにさ」
「そんなのどうだっていいだろう」
「よくないね。俺の前で他の男の名前を呼ぶなんて許せない」
「おまえ、酔ってるのか? 怪我人のクセに酒を飲んだのか?」
「さぁ、どうだかね」
尾栗はその体勢のまま菊池の唇をふさいだ。熱い息が直接に往来する。
「思い切り欲情したって言ったろ、雅行?」
「だからそういうのは彼女たちに言えばいいだろうが。相手の同意さえ得られれば大目にみてもらえるハズだ。だからな、尾栗・・・」
なんとか逃れようと必死に後ずさりながら菊池が言う。
しかし尾栗はそれに聞く耳を持たず、強く抱きしめ熱に形を変えた欲望を押しつけた。
「俺はおまえに欲情してるんだって」
「・・・尾栗!!」
泣きそうな声で尾栗を呼ぶ。それは悲鳴に似て、その声にまた一段と抱擁がきつくなる。
「おまえも俺もオトコだからな。熱は開放してやらないと、ダメだろ・・?」
尾栗はそう言いながら首筋に口づけを与え、制服のボタンをはずしていく。
「や・・めろっ・・・!」
「最後まではしないからさ」
素肌に触れられて戦慄する。体中が熱くなっていくのを二人、肌で感じていた。
「ヤだ。やめろよ、尾栗・・・」
「名前で呼んでくれたら放してやってもいいぜ」
熱源に直截に触れられて菊池は涙がこらえきれなくなった。きつく目を閉じ、衝撃と感情の渦に頭を振りながら必死にこらえようとしている。
「ん・・ヤ・・・・洋介ぇ」
波の音のかわりに荒い呼吸に聴覚を支配された菊池が無意識にせつなく呼んだ名前。
瞬間、尾栗はきつく菊池を握り締めた。
その刺激に菊池が達する。
「雅行っ!」
自分はそのまま、菊池の熱を受け止めて尾栗は顔を落とした。
尾栗がはだけた肩に噛みつくと、その痛みに菊池が我にかえる。乱れた前髪。
「・・・・・康平」
初めて、名前を呼んだ。この上ないせつなさと痛みを伴っていた。
「すまん・・・」
どちらからともなくそう言って、体をはなした。
尾栗に背を向け乱れた制服と呼吸を整えながら、菊池は空を見た。
きれいな星が出ていた。海の方角から風が吹いてきて髪を揺らしていった。
尾栗は離れていった温もりを五感で追いながら、重くうつむいて熱をこらえていた。
後悔というのではない、やるせない何かが胸の中に熾き火となってくすぶった。
「なぁ菊池・・・」
尾栗が今日初めて、菊池を姓で呼んだ。意識してのことだった。
菊池がそれに小さく肩を揺らす。
「やっぱりあいつがいいのか? 洋介じゃないとダメなのか? あいつ、おまえのことなんて見てないぞ? あの少佐のことしか考えてない」
「・・・・・すまん」
菊池にはそう言うことしかできなかった。できないと、思った。
自分は男だからと、そう言って尾栗を拒んだのとうらはらに、どうしようもなく角松を求めてしまう。
尾栗の気持ちを知っていて、かつて体を重ねたことさえもあったのに、応えることはできない。
「すまん、康平・・・」
体に力の入らないまま無理矢理に自分を律して立ち上がる菊池。
今菊池が見上げているのはこの南の空に輝く星でも、帰れずにいる懐かしい時代でさえもなく。
ほんの数キロ先に停泊している、灰色の軍艦。
―――そらぞらしい名前を負った、唯一の帰る場所。
振り返ることもなく菊池が走り出す。
尾栗はそこに座したまま追うことも、声をかけることもできずにいた。
熱を孕んだままの身で、ぬるい風に吹かれている。
俺もあいつもバカなんだ。そうと知りながら何も出来ない。
「洋介のバカヤロウ」
再び戻ってきた静寂に甲板で聞く波の音を重ねながら、尾栗は涙をこらえていた。



                                              
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