キミに吹く風
―陸で海を想うー


どれくらいそこにいただろうか。長い時間のような気もしたし、ほんの数瞬でしかない気もした。
熱はまだ体の奥にくすぶっていた。
バカヤロウと、繰り返し口の中で何度もつぶやいた。自分でも、それがすでに誰を指している言葉か分からなくなってしまっていた。
帰らなければと思わないわけではなかったが、どこに戻ればいいのかも分からなかった。
二人に対して疚しい気持ちがあるわけではなかった。
自分が自分であるために、仕方のないことだった。自分に正直でしかいられない。それだけの事だったけれど。
今はただ、菊池のそばにいることはできないだろうと思っていた。
艦に戻って角松と顔をあわせることだけは絶対にできないと思った。
菊池に与えてしまったあの行動を、後悔するつもりはなかった。
ただ自分が、どうしても今のこの状況に耐えられそうになかっただけだ。泣きたい気もしたが、泣くことはできなかった。
ふとその時に背後の木陰に人の気配があって尾栗は振り返った。
「・・・まだ戻られないんですか?」
いつもの作業着に識別帽をかぶった姿ではなかったのでとっさに分からなかったのだが、見知った顔だった。
「・・・杏野通信士」
かすかに顔を赤らめながらおずおずと尾栗のすぐ隣りまで歩み寄った。
彼はたしか菊地に憧れていると言った子ではなかったか。いつも菊池のそばにあろうとして、眼鏡も菊池を意識してかけていると言っていた。
童顔である上に素直な性格が彼を年齢以上に幼く見せ、CICの誰からも気に入られている存在だ。
「航海長。すみません、オレ、あの・・・見るつもりなんてなかったんですけど・・・」
言いづらそうにしながら正直にそんな告白をする彼に、尾栗は少しだけ腹を立てた。
それはめったに正直にならない菊池の態度への鬱積であり、同時に惜しげもなく本音をさらす杏野への嫉妬でもあった。
「見てたのか? いつからだ?」
不機嫌な声で言い放つ。杏野はそれにうなだれた。
「いえ、あの、その・・・・」
言葉にならないでいるその態度に、ほとんどが知られているのだろうと察した尾栗は、それでもいいさと自らを嘲笑する。
「軽蔑・・・するか?」
「そんなことはないです!」
杏野は大きく頭をふって否定した。精一杯の好意を見せようとするかのようだった。
「しばらく放っておいてくれよ」
「・・・・・・・」
尾栗は杏野の姿を見ているのがつらくて、背を向けるとうずくまるように視線を落とした。
このまま帰ってくれればいいと思った。ずっと1人でいたかった。
遠くに波の音を聞きながら、尾栗はじっと堪えていた。何も考えたくないと思っていた。
そんな尾栗の思惑に反して、杏野もまた動こうとしない。言葉もなくじっとそこに立ちつくしていた。
「帰っていいぞ」
「・・・・」
杏野が首を横に振るのが気配でわかった。立ち去ろうとしないことも。
「帰れよ」
「・・・・・・・・できません」
「上官の命令だぞ」
「それでもです」
彼にしては珍しく強い語調で言い募って、杏野はしゃがみ込み尾栗の手をひいた。
「一緒に戻りましょうよ、航海長・・・」
「まだ帰れねーんだよ」
「オレ、絶対に口外しません。それにもし航海長が砲雷長たちと顔を合わされるのイヤでしたら、オレが様子をうかがって案内しますから」
それで自分に何のメリットがあるというのだろう。
杏野は必死に、けれどそれを悟られないように気を使いながら尾栗を誘う。
「そんな気分になれないんだ」
年も階級もずっと下の、さして親しい仲でもない相手にそこまでされて、尾栗の中に不思議な感情がわきおこる。
怒りとも悲しみともつかない、そして自分自身への呆れと憤りに似た思いが、再び抑えきれない衝動となって尾栗を襲った。
「ちきしょうっ!」
掴まれていた腕を強く振り、その勢いで杏野を引き寄せる。
バランスを崩した杏野はそのまま尾栗の腕の中に閉じ込められた。
「おまえが代わりにさせてくれるんなら帰ってもいいぞ」
昔のあいつに似てるしな・・・強ばる体を押さえつけて耳元にささやく。
杏野がそれに小さく震えた。泣きそうになっているんだと尾栗には分かっていた。
けれど抑えきれなかった。八つ当たりだというのも自覚していた。
泣きたいのは自分のほうだと思っていたから、それが免罪符になるような気がしていた。そんなことはないと本心では分かりきっていたが、そう思い込んでいたかった。
「・・・航海・・長?」
「名前で呼んでみろよ」
自分でも驚くほど低くかすれた声が出た。残酷な気持ちだった。
震える杏野の腕をそっと自分の背中にまわさせる。自分より華奢だと思っていた菊池より、さらにいくらか小さい体だった。
「・・・尾栗・・・さん・・・」
戸惑うようなためらうような声で遠慮がちに呼ばれる。そんなところまで似せなくてもいいのにと、ますます悲しくなる。
「そうじゃなく、下の名前で呼べよ。・・・俺の名前、知らない?」
すがるように背にまわされた手に力が込められ、その先で再び首が横に振られた。腕の中でごめんなさい、と消え入りそうな声が繰り返される。
顔をのぞきこむ。思ったとおり眼鏡の向こうは目をぎゅっと閉じられ、涙で濡れていた。泣き顔はますます幼く見えて、急にいたたまれなくなった。
尾栗は肩に負担をかけないように腕を伸ばし、杏野の体を緩く抱き寄せなおすと、その胸元に自分の顔を押し当てた。
「名前、呼んでくれよ・・・?」
そんな尾栗の変化に杏野も気がついて、少しだけ緊張がほどけたらしい。まだ疑問をはらみながらも、涙で重くなった目蓋を瞬かせ、おずおずと尾栗の様子をうかがおうとした。そしてためらいがちに名前を呼んだ。
「おぐ・・・・・・康平、さん・・・」
杏野にはどうしても名前を呼び捨てることができなかった。それは自分が下位の者であるということと、そして最前の菊池とのやりとりを見てしまったことにある。
だからこそ、ごめんなさいを繰り返していたのであり、しかし本当は誰に対して謝りたいのかを自分でも分かりかねていた。
「わりぃ・・・もうちょっとだけこのままで、な・・・」
まるですがるように尾栗が体重の全てを預ける。熱の消えた、少し淋しいくらいの優しい声が杏野の胸の上でささやかれた。心に直接しみていくようなせつなさが、先ほどまでと違う理由で杏野の鼓動を早めた。
「ごめんな。本当にもう何もしないからさ、もう少しだけつきあって・・・」
「航か・・・・・康平、さん・・・?」
尾栗は杏野に名前を呼ばれたことで見失いかけていた自分を取り戻すことができたようだった。ようやく酔いが覚めたんだと、たいして飲んではいなかった酒精のせいにして、一緒に想いを振り切ってしまうことにした。
尾栗の中にもう訳も分からぬまま渦巻く感情も、体の奥からの熱ももはや霧散してなくなっていた。ただ幾許かのせつなさと、杏野へのちょっとした気まずさだけが存在していた。
「杏野おまえ、かわいいな・・・。誰かさんとちっとも似てない」
それらを解消すべく尾栗は、菊池に少しだけ似ているけれど全く異なる存在である杏野を抱きしめ、同時に包まれ癒されていた。
「おまえが俺らと同期だったら惚れてたかもな。惜しいことしたなぁ・・・」
尾栗がくすくすと笑いながら顔だけ起こして言う。杏野はそれにまた赤面する。
「自分なんかじゃ、とうてい皆さんのレベルについていけないです。オレ、砲雷長もそうですけど、副長とか航海長のファンなんですよ」
「ファン〜〜? なんだよそれ、ミーハーだなぁ」
「でも事実ですから」
尾栗が右手を支えに体を起こすと、その下から抜け出すように杏野も上半身を起こして、尾栗と向き合って座る形になった。
「俺のファンねぇ・・・」
ピンと来ないな等と言いながら尾栗が笑う。その仕草にいつもの航海長だと確信して杏野もまた笑った。
「いい加減に帰らないと副長代理殿に怒られっかな・・・」
「そうですね」
「立つから肩貸して」
尾栗は痛みすらほとんど忘れかけていた怪我をダシに杏野を手招きで寄せる。素直な杏野はそれに従ってすぐ間近に屈みこみ、そして肩に手を回された。
立ち上げるふりで体重をかけて杏野の肩を抱き寄せた尾栗はすかさず杏野の唇を奪った。
「ふひゃ!」
それは軽く触れ合うだけのものであったが杏野は驚きを隠せない。
「まさかこれがファーストキスとか言わないよな?」
そんな反応に尾栗は少しだけ悪びれ、心配そうな面持ちで杏野の顔を覗き込んだ。杏野は赤面しながら手で口元をおおっている。
「いや、さすがに初めてではないですけど・・・」
「ん、そうか。ならよかった。だったらさすがに“悪い”の一言じゃ済まないもんな。・・・気持ち悪かった?」
「そんなことはないです・・・!」
杏野は大きく頭を振る。喜んでいるようには見えなかったが嫌悪感もさしてないように見受けられて尾栗は安堵した。
「俺とあいつもさ、ただの腐れ縁・・だけじゃなかったからなぁ」
誰に言うでもないようにつぶやいて、それから顔を近づける。
「でもさ、おまえの憧れ、壊しちまってごめんな」
優しい声でそう言われて、杏野は泣きそうになった。それを必死にこらえる。
「帰りましょうね、航海長」
「心配かけてすまんな、杏野通信士」
どちらからともなく敬礼をして、そして回れ右。二人並んで歩き出した。
月とたくさんの星に彩られた空は街灯を必要としない程度に明るく、ぬるい風が潮の香りをはらんでゆるやかに吹き抜ける。
遠くかすかに波の音がしていたが、建物に近づくに連れそれは雑多な声や音たちに紛れかそけくなっていった。



                                              
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